関所は交通の要衝や国境に設けて
戦時は防衛に使用し、平常時は通行者や貨物の通過を検査する門。
古代には「関」または「(せん)」などとよんだが、正確には前者は通行者の手形などを検閲して、怪しい者かどうかを判定する所、後者は塹濠(ざんごう)や柵(さく)を設けて、その通過を阻む所をさしていった。
律令制的な軍事機能優先の関は消滅して、幕府や武家、荘園(しょうえん)領主、地方豪族などが交通の要地に新関を設けて関銭(修築費、通行税、警固税からなる)を徴収する風潮が一般的となった。
当時、内裏や社寺の建立・修復など諸種の名目で多くの関所が設けられたが、将軍足利義政(あしかがよしまさ)の夫人日野富子(ひのとみこ)が応仁(おうにん)の乱発生後の1478年(文明10)内裏修復の名目で京都に入る七口(ななくち)に関所を設け、その関銭を化粧料にあてて奢侈(しゃし)を極めたなど、有名な話である。
1462年(寛正3)淀(よど)川べりだけで380か所の関所を数え、また参宮街道では桑名(くわな)(三重県桑名市)―日永(ひなが)(四日市(よっかいち)市)間のわずか18キロの間に実に60の関所を置いて一文ずつの関銭を徴収したという。
こうした新関の濫設は、商品流通を阻害するため、馬借一揆(ばしゃくいっき)などの攻撃対象となり、織田信長・豊臣(とよとみ)秀吉により関所撤廃策が打ち出された。
なお、戦国大名の関所では、関銭徴収という経済的機能重視のもののほか、国境などで敵対勢力の侵入を防ぐ軍事的機能を優先するものが増加した。